あたりまえということ その2

【あたりまえということ その2】

100メートルを全力で走るために必要な力とは何か?それは

「筋力」、、、、正解です。
「脚力」、、、、正解です

当然、このあたりの回答をお考えになった方が圧倒的に多いと思います。

確かに走るという行為の「出力」という面だけを見ていれば脚力とか筋力というのが正解になります。ところが全力で走るということを考えると、それだけでは全く片手落ちだということがわかります。

全力で走るために必須不可欠な力というものは、、、、

「視力」です。

なぜ全力で走れるかというと、その走ろうとする環境に危険がないということがわかるからです。目をつぶって全力で走れと言われれば、よほど信頼できる伴走者でもいない限り不可能です。ほとんど自殺行為です。

だから、私たちは脚力で走っていると思っていますが、そういった走れる足が発達したのは、走っても安全な環境なのかどうかということが明確にわかる視力を持っていたからだ、ということを忘れがちだということです。

視力がなかったら、「走る」「高速移動する」ということそのものが生物の選択肢としてありえません。見えないのに高速移動するような個体がいれば、穴に落ちる、木に衝突するなどによって早々にけがを負うか生命を失いますから、子孫を残すことができません。

つまり私たちの行動というのは、まず情報の入力があって、その入力に対して対応できる出力の機能があって成り立っているということです。入力と出力の陰陽の両方を考えてこそ、効果的なトレーニングが設計できると和の体育では考えます。

さて、この原稿を配信する頃には状況は変わっているかもしれませんが、なぜここまで世界的に感染症がまん延し、4月19日の時点で世界的に見れば、現在の第二波が第一波の最高値を超える状況が広がっているにもかかわらず、オリンピックを中止にできないのかということを先日来考えておりました。

なぜオリンピックを中止にできないのか、ということに関して「それは利権がからんでいるからだ」というような議論はここではしません。

また以前には、開催するための組織や役割分担というものはめちゃめちゃに大量に用意されているけれども、それを止める中止するということに関しては責任者が実は不在なのではないかというようなことを書いてきました。つまり仕組みの問題だということです。

そういった「利権にからんだ政治問題」とか「制度的な仕組みの問題」というものを置いておいて、あくまでも「体育」として身体から考えるとどうなるんだろうということのお話です。日本人の身体の特性です。

そのことと今日書いた「情報の入力があって、出力機能が発達するんだ仮説」がつながったので、明日以後そのあたりを解説します。

 

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝