明けましておめでたいのはなぜなのか 1

「明けましておめでたいのはなぜなのか 1」

まあ、いたるところでおめでとうございますと言葉を交わすお正月です。

筆者の浅学ぶりをご披露するだけの内容なのですが、しばしお付き合いください。

おめでとうございますが連呼されるわけですが、一体何がおめでたいのでしょうか?調べたところで2説あります。一つは池上彰さんがテレビで言っていたという「昭和24年までは日本では満年齢を使わず、生まれた時が1歳でお正月で一つ年を取る。いわゆる「数え年」というやつです。だから元旦は万人の誕生日だったのでおめでたいのだ」という話。

もう一つは元日にその年の五穀豊穣をつかさどる「歳神様」が家々に来られる。しめ飾りや鏡餅や門松というのは、その「歳神様」をお迎えするためのアイテムなわけですね。なので「今年も歳神様を無事お迎えできておめでたいですね」ということを声がけし合うというお話しです。

池上さんの説も慣習的にそういう意味合いも含んだかもしれないかと思いますが、歴史的に考えれば「歳神様」のお迎えを祝うという方が筋が通っています。

江戸の末期だか明治の初期だけに人口調査で日本人の職業別人数構成は

農民 85%
町人 5%
公家神官僧 1.5%
えた非人 1.5%
武士 7%

でした。国民のほとんどが農業で、武士だってその給料はお米ですから、その年が五穀豊穣かどうかというのはめちゃめちゃシビアな問題だったのですから、元旦に神様に来ていただけるということは非常にありがたい。

しかし、神様が来てくださったかどうか、というのはどうやって確認したのだろうかと思います。神様が来られたら、神棚なり鏡餅が「ピコン」とLINEが来たみたいに鳴るとかあればわかりますが、そういう合図はない。

でも農業によって支えられている時代です。毎年歳神様が来られているにも関わらず、飢饉や凶作の年だってあったはずです。ということは万が一歳神様が来られていないということになれば、飢饉、凶作間違いなしという大変にシビアな危機だということになってしまいます。

歳神様が毎年来られているにも関わらず、不作凶作飢饉になる年もあるという事実をどう解釈すればいいでしょうか?私が考えたのは「歳神様バッテリー説」です。携帯電話のバッテリーです。

歳神様は、毎年毎年豊作にすべくご尽力されている。しかし、年によってはその年間持つはずのバッテリーのパワーが秋まで十分に持たず、日照りに負けたり水害に負けたりする年もある。古くなったスマホのバッテリーのように一日持たないで夕方に息切れしたりする年もある。(あくまでイメージです)

というような解釈を江戸時代のご先祖様がされたかどうかわかりませんが、神様が来たからといって安泰ではなく、でも神頼みをせざるを得ないぐらい、その年が豊作になるかならないかというのはシビアな問題であったということだけは確かです。

(つづく)

 

マイクロストレッチと皮下チューニング
生活整体研究家

津田啓史 拝