力を抜くのが正しいかどうか

【力を抜くのが正しいかどうか】

昨日お伝えした「キーボードが強く打てない問題」をもう少し掘り下げて考えてみました。
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キーボードが打てない

スポーツの上達のためには無駄な力を抜けということが言われます。きっと正しいと思います。武術や身体操作の世界で「脱力、ゆるむ」ということが強調されます。これも正しいと思います。

結果として正しいとは思うんですけれども、その言葉の表現では今一つしっくりこない何かがあり、引っかかるところがあるのです。

ゆるむとか脱力とかいう表現は、方向性のみ語られていて、その「精度」があまりにも漠然としているというのがその違和感の正体です。

世の中「これさえあれば大丈夫」という切り口で宣伝されているものが多く、もちろん私自身も、それに類するような表現で講座などの宣伝をすることもあります。ですが「たった一つのこと」だけでことごとくうまくいくということは実際問題ありません。少なくとも私の人生の中ではありませんでした。

「たった一つのことをきっかけにして、次々につないで発展させて成果を得る」というのはありましたけど。

だから「緩みさえすればうまくいく」というのは、人をその気にさせる魅力的な表現だとは思いますが、ゆるむのとヘタるのとの区別もつかないような凡人に、そのことをもって多大なパフォーマンスアップを期待するというのは無理があると思います。

それで問題は「キーボードが強く叩けない問題」です。そもそも今の時代のキーボードは、ごく軽く弱い力で十分に反応してくれます。私が周りに響き渡るような音でキーボードを打ち鳴らしている強さというのは、キーボードを痛めつけることはあっても決して長持ちさせることはありません。

そこにあるのは少しでも早く文章を完成させたいというこちら側の思いだけで、バチバチと叩かれる側のキーボードの都合、キーボードの希望というものは一切加味されていないということに気が付きました。

そこでその時の身体感覚で、体が拒否しないようにキーボードを打ってみると実に柔らかい、かつ押し込みすぎないという打ち方に変わっていました。

ということで、脱力とかゆるむということに対しての一つの回答の仮説が生まれました。つまり力を抜くのではなく、「必要最小限の力」でやるということでした。

必要最小限以外は、不要容量オーバーか必要量に足りないということですね。

そしてなぜそれが必要なのかということが同時にわかりました。必要最小限だと思われる強さで打つと、キーボードのへこむ幅だとか押し返す力だとかそういったものを感じ取る量がてきめんに増えるのです。

つまり必要最小限というのは、自分が必要最小限だと思っている力加減ということではなく、「対象からの情報を最も的確に取り入れることができてわかる質感」だということです。

つまり、「脱力する」も、「ゆるむ」も、「頑張らなくていいよ」という文言も分からんこともないけれども全面的に賛同して自分で使いたくならないのは、個人の思いの中だけで語られていて、対象者がいないからだと気付きました。

「必要最小限の力でやる」と前記しましたが、言い換えれば「私と対象の双方にちょうどいいだけやる」という言い方もできます。

キーボードの例で言えば、叩かれるキーボードが大変気持ちよろしいと満足して、なおかつ私の頭の中で考えていることが、高速で文字化されるということが促進されるような強さを探す、というのがその回答になろうかと思います。

一言で言えば双方にちょうど良いということになります。なんと新鮮味のないありふれた言葉なんでしょう。(笑)

自分と対象者、対象物、道具、または環境や条件などなど、それらの条件の中でちょうどいいを探す。それこそが「和の体育だ」ということに整理されました。

ということで、この原稿は音声入力したものを、キーボードで必要最小限の力を探しつつ仕上げられたものでございました。めでたしめでたし。

今日のはまだ発端のお話なので、これからこれが消えないようにしていこうと思っています。「これだけやれば大丈夫」というものが仮にあったとしても、それだけでも消えないように続けるというのはじつは大変なのでございますよ。(笑)

 

生活整体研究家
進化体操と和の知育

津田啓史 拝