感染症の日本史 2
緊急事態宣言の発出を受け、当面4月25日から5月の11日までは休講になりました。
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『感染症の日本史 2』
緊急事態宣言3回目が出ました。感染症に対して昔の日本ではいかなる対策が取られていたのかという、磯田道史先生の「感染症の日本史」からごく一部抜粋して紹介しています。
とても手厚い補償をしていた山口県の岩国藩に対して、長崎県の皆さんごめんなさい。ここで対照的に取り上げられるのは大村藩です。
大村藩では、天然痘というのは鬼神のたたりなんじゃというので、やはり人里離れたところに隔離されます。ここまでは同じなんですが、その先は違います。一応人は出入りできるのですが、それ以外は家族だろうと夫婦だろうと一切立ち寄ることができません。
結果どうなるかというと10人中7~8人は亡くなってしまった。全快して自宅に戻れる人はほとんど稀だったということです。
つまり、指定の看病人がいるといっても、ろくな治療が受けられたわけではありませんから、ほとんど「自助」を強制されたわけです。
庶民が自助を心がけるにはいいことだと思います。いざというときに助けがなくても生き延びられるように災害に備えるぞ、というような例ですね。ただしそれは行政のトップが言うことじゃない。
ここで話題が変わって、江戸時代の感染症に関しての統計的なデータが残っています。岡山県の津山藩です。
津山藩の町奉行が書いた1802年の記録です。そこでは「天然痘が流行している。通常月平均の死者は10人位だが、この9月は60人が亡くなっている」と記録されているそうです。
当時の津山の人口が7,000人弱。1ヵ月で死亡者が60人ということは、人口の1%が1ヵ月で亡くなったということになるとかなりの大事件なわけです。
磯田先生は語ります。
「これは現代の『超過死亡(過去の統計をもとに推測される死者数からの増加)』の概念と同じです。例えば、2020年4月の東京都の死亡数はおよそ10,000人でした。
これを2019年の同月と比べると700人近く多く、2016年から2019年の平均よりも約1,000人多いことになります。この山によって新型感染症を原因とする死者の増加を推定します。この方法を江戸時代の津山藩は行っていたことになります」
ちゃんとした行政文書が残っていると、後世の検証に役立ちますね。都合が悪くなると廃棄したり隠蔽したり改ざんするどこかの国は見習うべきですね。
さらに津山藩では、藩主が川遊びに行く時は、お城から川までの道筋にいる天然痘の患者を問い合わせし、感染者のいる家族では窓を閉めて藩主ご一行様の通り過ぎるのを待ったそうです。
津山藩では感染症に対する「ゾーニング」もすでに実施していたということです。
こういった隔離政策をあえて取らなかった、東北地方の明君の話は明日。
生活整体研究家
進化体操と和の体育
津田啓史 拝