感染症の日本史 3

緊急事態宣言の発出を受け、当面4月25日から5月の11日までは休講になりました。

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『感染症の日本史 3』

緊急事態宣言3回目が出ました。感染症に対して昔の日本ではいかなる対策が取られていたのかという磯田道史先生の「感染症の日本史」から一部抜粋して紹介しています。

隔離政策をとらなかったのは、名君の誉の高い米沢藩の上杉鷹山です。

為せば成る
為さねば成らぬ
何事も
為さぬは人の
為さぬなりけり

なんて名言が今も残って、おりにふれて使われていますね。

寛政7年1795年、米沢藩を天然痘の大流行が襲いました。

米沢藩というのは、先進的で先端技術を得ることに熱心でした。最先端の医学書のコレクションまで持っていました。西洋医学の知識の吸収にも極めて積極的で、杉田玄白の蘭学塾に藩の費用で医師を留学させたりもしています。

つまり天然痘に関しての医学的な知識というものは十分に持ち合わせている藩であり、感染性のある恐ろしい病気だということは十分に理解していました。

そして大流行が起こった時、藩主であった上杉鷹山は岩国藩や徳川幕府とは全く逆の判断をします。それは、家族に天然痘の患者が出ても、お城に出勤しても構わないというものでした。それは藩主に近づく役向きのものであっても構わないというものでした。

天然痘は怖くないと思っていたわけではありません。最初に書いたように、医学的な知識のようなものは米沢藩にはハイレベルで備わっていたからです。

おそらく上杉鷹山は、疫病から自分の健康を守ることよりも、行政を止めてしまうことにより起こる不利益を重大なこととして判断していたようなのです。非常事態だからこそ、役所の仕事をストップさせてはいけないのだと判断したのです。自分にうつしても構わないから役所を動かすんだと指示をしたのです。

感染症を軽く見ていたのではない証拠に、上杉鷹山は次から次へと「患者支援策」を打ち出します。

くりかえしますが寛政7年、1795年のお話です。今から220年以上も前の話です。令和3年のどこかの県知事のお話ではありません。

 

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝