野口整体の見方 熱は下げない 3
【野口整体の見方 熱は下げない 3】
傷口を消毒するのが当たり前だと思っていたけれども、案外それが治りを遅くしていたりやけどが治った後の傷口を醜くしていたりした、という事実があるということをお話ししました。
また何かに感染したときは、身体は自衛のために熱をドンドンと上げて、その結果好中球の活性酸素の蓋が開いて身体の中に入ってくる異物をどんどん食べていく、そして消化していく。だからむやみやたらに熱を下げるべきでは無いということを話しました。
ある程度字数を割いて解説しましたから、確かにそうだなと思っていただけたのではないかと思います。
消毒をしないということと、熱を下げないということに共通しているのは、「もう一段二段奥を見ている、広く見ている」ということですね。
熱という常にない症状だけを見るから「下げなきゃ」と思ってしまいます。生まれたての生命力にあふれた赤ちゃんは体温が高い。生命力の高い幼児の方が高い熱を出す。すぐに出す。
元気な人は体温が高い。熱が出てもすぐに下がる。年を取って生命力が衰えてくると、体温が低くなる。風邪をひいても熱があがりきらずにいつまでも微熱が続いたりする。生きている間は温かく、死んだら冷たくなる。
そのあたりまで一緒に視界に入れると、熱が出たから下げたいというのが、非常に視野の狭い考え方だということが見えてきます。
そして、傷口の消毒だって、人間だけ見ていると必須不可欠なような気がしますが、けがをしたら消毒するのは人間だけなわけで、犬など雑菌だらけのような気がしますがなめている。
別に消毒をしないでも、すべてのけがをした動物が感染症で死ぬかというとそんなことはない。動物たちにだって免疫はあります。きれいに洗ってシートで被うというのは、皮ふの再生力だとか免疫の「対細菌ミッション」を邪魔しないで協力するような考え方です。
「もともとそうなっている」「もともとそういう仕組みになっている」ということに沿っているからうまくいくわけです。
つまり前提が間違っていると、そこから発展していったものは意味がない、効果が薄い、極端な話逆効果になると言えます。
「科学的」というと「分析する」という言葉とセットで使われがちですが、分析に片寄ると細かく分けて小さく小さく見てしまいます。もちろんそれを否定するわけではありませんが、和の体育の視点で見れば、そこに陰陽がなければ片手落ちだとみる。
分析の対義語は「総合」です。分析と総合を両輪にして見ていった方が間違いがないと思うのです。
ということで次回から、コロナ禍における補償の問題に進みます。
熱だけを見ると下げないといけない悪いもののように見えてしまう。ところが「生きている人は温かい、死んだら冷たくなる」からスタートすると「普段以上に活発に熱を出すって、どういうことなんだろう」から始められます。
整体というのは医療行為ではありません。国家資格もありません。治療術ではなくて「体育」です。だから細分化された治療の方ばかり見ないですみます。だから、病気だけを見ないで元気も見る。治すことだけを見ないで「死ぬまで生きている」という流れで見ます。
コロナ禍の中、少し視野を広げて「国育(こくいく)」とでもいう視点でとらえなおしてみます。(つづく)
生活整体研究家
進化体操と和の体育
津田啓史 拝