野口整体の氣の話

【野口整体の氣の話】

野口晴哉先生が、その整体でもっとも重視されたのは「氣」です。

今、「氣の整体」というような文脈だと「手から出る癒しのエネルギー」という角度でとらえられると思います。もちろん、野口整体というのは手から出る氣の整体ですが、それはあくまでも手段であって、整体全体ではありません。

野口先生が観ておられた「氣」というのは、「生きる勢い」というような意味合いでこちらの方を重視された。

もともと野口先生が「整体を発現された」最初の最初というのが関東大震災の焼け跡のお話でした。衛生状態が悪いからみんな下痢をする。野口少年が手を当てると下痢が止まって喜ばれた。

ところが野口先生の話はこれだけでは終わりませんで、野口少年は焼け跡で体調を崩した人を見て「この人は助かる、この人はダメ、持たない」ということが分かった。その整体人生のスタートの時点で、「この人には手を当てれば治るね」というのと「この人は助からない」という両極端を併せ持たれていたということです。

だから、野口先生の整体というのは「生の見極め」というのが根底にあります。なので「常に人の氣、つまりその生きる勢いだけを観ていた。それがある人は死なない。それがない人は死ぬ。死なない人は放っておいても治っていく」

ここまで見定めて整体をされていたそうです。

もちろん、私はそんなことは観えない。わからない。わからないから少しでもわかりたくて、野口山のすそ野の方をずっとうろうろしています。たぶん、ずっとうろうろすると思います。

それでも20年ほどやっていますから、何もかもさっぱりわからないというわけでもありません。身体に現れるその「氣」みたいなものが凝り固まっているのを流れる手伝いをしたり、集まるべきところに集まる手助けをしたりというようなことはしています。

ということで、ここからは整体の見方でコロナ禍を考えてみます。緊急事態宣言の是非を論じるわけではなく、その作用を「社会」というものを「人体」に見立ててみるとどういう景色になるかということを考えてみたいと思います。

緊急事態宣言の具体的な作用というのは何かというと、人に活動することをしばらく止めてくれというのが実態です。つまり、人体であれば気が流れていくのを止めてしまうというようなことを始めてしまった。

それで、人体における生命の勢い、氣というものは社会においては何だろうと考えると、「お金」というものを当てはめると非常にうまくはまります。とても良く似ているのです。

いやいや、お金というものは実態があるけれども、氣なんて見えないし実態がないじゃないかなんて反論が思い浮かぶかもしれません。ですが、お金というものも実は実態がない、というのが現代の貨幣なのです。(つづく)

 

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝