本当に見えていない?
【本当に見えていない?】
100メートルを全力で走るために必要なのは「視力」だということを申し述べました。100メートル先まで安全であるということを視覚的に確認することができるから、全力で走ることができるということです。
そして、人間が五感から得ている情報の90%が視覚からであるということが言われます。とにもかくにも、人間が視覚的情報をもとにして行動を選んでいる、選ばざるを得ないというのはかなり確定的な事実だと思います。
そう考えると、視力がいい民族というのは、遠くまでよく見えるので、そこまで徒歩移動して何かをして帰ってくるというのが日常多くなると考えられます。つまり「時間」という観念が強くなるのです。
そうすると長い時間で物事を考え、見通しを立てて計画的にものごとを運ぶということがうまくなります。
目の前のものしか視野に入らない民族は、計画的なこと、見通しを立てて物事を運ぶということが不得手になります。私は計画的に物事を運ぶというのが本当に苦手です。だからずっとそれに悩まされて、研究し続けて「自己実現のセミナー」までやることになりました。
得意だからやったのではなく、何年かけてもうまくいかなかったら研究を止められなかったのです。
近視眼的という言葉があります。目の前のことしか見えず、大局が見えないというような時に使われます。
「オリンピックの開催」だけを優先的に尊重して、コロナの国内状況が見えない、世界情勢も考えられないのかという疑問が湧いてきたわけです。
利権誘導だとか関係者優遇で突き進んでいるんだろうと決めつけるのをいったん外してみると(なくはないでしょうが)、もしかして本当に情報として目に入ってこない、見えてないかもとも思えてきたのです。
もちろん、これこそが正しい分析だなどと申し上げたいわけではありません。どちらかというとこじつけのトンデモ論に近いです。
世界の中で、日本人というのは近視の割合がとても多い国民だということは知られています。昭和のころ、海外で首にカメラをかけて、小柄で「眼鏡」の東洋人はみな日本人というイメージで語られたことがありました。それだけ日本人の眼鏡率が高かった。
近視の目というのはどういう目なのでしょう。これを「遠くのものが【見えない】」という否定的な面で表現すると分析が進みません。
「ない」ものは分析できません。近視の目は遠くが見え「ない」かわりに、何をやっているかを見ていきます。
そうすると、近視という目の特性は「遠くが見えない目」なのではなく「近くにあるものだけを優先的に見てしまう」というのが本当の特性だと見えてきます。(つづく)
生活整体研究家
進化体操と和の体育
津田啓史 拝