正解を追い求めるよりも

関東圏、関西圏に緊急事態宣言が発出されました。

すくなくとも宣言期間中、5月の11日までは最低限休業せざるを得ないようです。

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『正解を追い求めるよりも』

さて前回までのブログでは、近視の人が多い日本人の特性として、本当に目の前にあるオリンピックのことしか視界に入っていないのでは、といういささか荒っぽい仮説に至りました。
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本当に見えていない?

緊急事態になると、人は視力に関係なく視野狭窄になります。周りのものが目に入らなくなります。コロナ禍というのは「有事」です。緊急事態です。大変な事態です。

全く予想していない大変な状況になったときには、身体はやり慣れていない複雑なことは避けます。使い慣れたものしか使えなくなり、それでなんとかしようとします。

別に今の政府が、集団的近視だと決めつけているわけではありません。国民性という言葉があります。個人個人を見るとばらばらだけど、集団で見れば一定の傾向が見られるというものです。

ラテンは陽気だといいますが、たぶん一人ひとり見ていけば陰気なラテンの人もいるでしょう。でも全体で言えば、あきらかにその集団の特性というものは見受けられる。

そうすると、日本人は明らかに視力はよくないというデータはあるそうです。ということは、日本人は近くを優先的に見てもろもろ考えたり行動したりする度合いは優位に高くなります。すると日本人の集団で採用される方針や方向性というのは当然、遠く(先)を見通すものよりも、今目の前にあるものを前提にして決まるということになります。

そうすると、仮に視力のいい人が一定数混じっていたとしても、集団の意見というのはごく近くにあるものを中心に組み立てられますから、いきおい近くを見て考えるようになります。そうしないと相手にされない、採用されないからです。

日本人は緊急事態になればなるほど、そういう傾向に拍車がかかる。

政府政権が、どうしてこんなに素人でもわかりそうなコロナ対策をしないのだろう、どう考えても危険すぎるオリンピックを強行しようとするのだろうということを考えてきました。

それで、利権にまみれているからやめるにやめられないのだというような見方を一度どけて考えて、緊急事態の当事者・責任者という立場で、近視的特性に、さらに視野狭窄がかぶさって本当に事態が目に入っていないのではないかという仮説を述べました。

でもそれがいくばくか的を射ていたとしたら、余計に恐ろしいですね。利権にまみれて、悪意のもとにオリンピックを強行する方がまだましです。無理をしている自覚があるわけですから。

「正解を選び、最短時間で一直線に成功する」というのが現代的な価値観だろうと思います。

和の体育では違います。環境や状況というものは常に変わっていきますから、長い目で見れば絶対的な正解というものはありません。

どちらかというと、自覚しやすい不正解を選んで、そこから無意識に身体が出してくる「不正解から距離を取ろうとする行動」をできるだけたくさん引き出して、結果として「ましにする」を重ねようとします。

正解というのは、成功するまでは正解かどうかわかりません。不正解なら未熟者でもわかります。だから凡人が上達するためには、不正解を見つけてできるだけ離れようとする方法がお勧めです。

だから、正解を求めて時間を費やすよりも、この方法ではうまくいかないよね、ということから離れていく練習を多くするようにします。複数の不正解から離れていく線を書いていくと、その線が交わる一点あたりに正解が存在する可能性が高くなります。

たまたまの失敗ではなく、あきらかな不正解とは何かということを追求すると、結果的に小手先の取り組みや部分的な無理のあるものを探すことになります。ひっくり返すと本質的、全体的なものを追いかけることになります。結果的に目が肥えてきて、続けていくと上達できます。

コロナで言えば「いかにも減りそうなこと」を並べて漠然と安心するのではなく、「どうやれば感染できるか」を周知徹底して、そこから距離をおく方法をやればいいということになります。「どうやれば感染できるのか」という方法が詳細に伝わるほど、一人ひとりの行う感染対策はより精度を増していきます。

 

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝