感染症の日本史 4
緊急事態宣言の発出を受け、当面4月25日から5月の11日までは休講になりました。
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『感染症の日本史 4』
上杉鷹山公の「患者支援策」とはいかなるものだったのでしょうか。
「まず打ち出したのは、生活が成り立たないものがいれば申し出なさい、という指示でした。
非常の流行に対しては、なかなか人力が及ぶところではなく甚だ気の毒に思う。生活が立ち行かなくなり、特に苦しんでいるものがいるだろうから、かかるものについては頭領または近隣のものがよくよく心を用いて、早速申し入れなさい」と述べています。」(感染症の日本史 92ページより引用)
そうやって生活困窮者を割り出すと手当てを出していきました。
令和3年の政府も全く無策ではなく、様々な経済対策を施しています。ところが、その申請方法がややこしかったり、システムに穴があったり、そもそもインターネットが使えなければ申請できなくなったりと様々な問題を抱えています。
こんな方法スマホもパソコンも持っていない高齢者の個人事業主は、絶対に申請できないよというようなものもあります。平時のシステムで、有事に対応しようとすることから起こる軋轢のようなものを感じます。
さらにびっくりです。上杉鷹山公は、江戸から天然痘専門の医者も呼び寄せて医療対策チームの指揮を執らせています。
さらにその感染症対策チームが往診をしたとしても、そこで費用は要らないというルールを作り周知しました。
保健所からいつまでたっても連絡が来ないので、自費でPCR検査をせざるを得ませんでしたなんていうのとずいぶんの違いです。
さらに、それら対策が取れるのは城下から近い所だけだから、遠いところに住んでいる領民が困らないようにということで、医学書を増刷して、遠方の村や山間地に配ります。
しかしながらこのパンデミックで米沢藩では8,000人を超える患者が出て2,600人という死者を出します。死亡率は25%を超える大変な被害です。
上杉鷹山公はこの大変な被害を非常に悲しみました。そしてこのパンデミックの翌年のお正月「昨年は天然痘が大流行して、領民がたくさん亡くなってしまった。だから年始の儀式はやめます」と言って新年の祝賀をやめました。
今のお正月ではなく、江戸時代のお正月です。お正月というのは、年神様が各戸に訪れて、一年の無病息災をもたらしてくれる、その神様をお迎えするという大事な儀式の時です。
現代の感覚で「クリスマスパーティーはやめましょう」というのとは全然違った、非常に重大な決断だったと思います
矢継早に、国内最高レベル?の医療政策を打ち出しながら、数多くの死者を出したことに悔やみ、新年の祝賀を中止しようという藩のトップ、これが江戸時代の米沢藩でした。寛政7年、1795年のお話です。今から220年以上も前の話です。
筋が通っています、一貫しています。
さて黄泉の国から上杉鷹山公が今の日本を見たらどう思うでしょうか。オリンピック開催をどう思われますかと、尋ねるまでもないでしょうね。
生活整体研究家
進化体操と和の体育
津田啓史 拝