(61)野口晴哉先生の極限の?体操

ところで、整体界の巨人、少しでも近づけたらと追いかけ続けている野口晴哉先生は、いわゆる「体操」をどのようにとらえられていたかというエピソード。

一つの答えとしては、背骨の反射を引き出して、身体が勝手におどるがごとく調整の動きが出てくるという「活元運動」が根本にあります。イスラエルだったかな、世界的に著名な体操導者が野口先生のところを訪問された。そしてその指導者の

「私は生涯に〇千個の体操を作ったが(数はうろおぼえ)、あなたは何個作ったか?」

という問いに対して

「オンリーワン」

と一言答えられたという、なんか居合抜き一刀両断のような胸のすくような、事実ありのままを述べただけでありながら、その大量の体操を作った指導者に対しての奥深いところへの問いかけにもなっているような回答をされた。そんなエピソードがあります。

そしてもう一つ。これがもう到底ついていけません。野口先生はその人の体癖からその人の身体の高潮低潮の「波」だとか、そういうことがことごとく読み取れた方でした。そういった超人が提案された体操というのは

「一年に一度の波の移り変わりの時期に、一分ほどやればあとの一年は体操はいらない」

というものだったと読んだことがあります。やろうと思えば究極のオーダーメイドができる力量を持たれているから、「人に手を当ててあとは天心でぽかんとしていればそれでいいんだ」というところまで、突き放して見られるのでしょう。

私はそこまでの力量はありません。逆立ちしたって届きません。個人個人の特性、ほんの少しの差異から膨大な情報をくみ取る力量などはたかが知れています。だから個人の特性に沿った最適かつ最低限の働きかけというようなものは根本に置けないのです。

「個人個人の特性を的確につかんで、そこをいかんなく発揮できるように誘導する」というような精緻な整体はできないのです。

できないけれども、人の身体に手を当てるならば、個人個人の特性は分からなくても、人類共通の特性なら少しずつでも分かってくる。人にとってのありのまま、本来、もともと、そういうところならまだ解明していくことができる。結果としてそういう路線をずっと追いかけてきて、そのながれの中で進化体操に至るという経緯を取るわけです。