(62)これだけやればいい、というものは?

沖ヨガ修道場でさまざまな多角的な訓練を受けて、結果として劇的に軽い心身を引き出すことに成功しました。そして、多角的過ぎて、ふだん結局何をやったらいいのだ、というのが絞れないことになりました。

仕事としてやっていくというのがずっとありましたから、自分自身がもっとも納得度の他界ものをやりたいというのと、人にももっとも納得度の高いものを伝えていきたいというのが常にあるのですね。

そして、世の中にはすごいレベルの先生というのはけっこうな数おられるわけです。でも先生はすごくても学んだ人、弟子、学んだとしてその私がすごくなれなければ困ります。すごくならなくても、ちゃんととうたっている方向に進んでいく、進歩していくというのがなければ、やっぱり人に教えてお金は取れないなと、そんな思いはあったのです。

そこからいきなり現在に飛びます。

今、進化体操の講座でやっている「一人でできるトレーニング」というのは

〇進化体操立位基本形
〇左右と反射のNヨガ
〇疲れないで整う左右と反射の筋トレ

が中心になっています。ペアになってやる応用法みたいなものとして

〇左右反射で楽に整う介護
〇左右反射で苦痛がないリハビリ

というような切り口で効果を実感してもらっています。

結局は絞り切れないでまだまだいろいろと種類多くやっているじゃないか、とも言えますが、実感としてはそうではないのです。一つのことを

〇波打つ連動の背骨の動きを無意識反射で身体に通す 進化体操
〇その進化体操の内包する背骨に力が通っていく道をゆっくりあるいは静止の形で柔軟体操の形でやっているのがNヨガ
〇同じく、軽く負荷をかけた状態でやっているのが「疲れないで整う筋トレ」

です。

「これだけやればいい!」というものがほしかったわけです。なので若い時ほど「特殊特別な能力や力」を自分に足すことだという切り口で追いかけてきたわけです。でも自分が素質才能はあまたの達人のようにはないし、努力する才能もない「へたれ」なんだなという自覚が深まれば、それにもとづいた「そんな自分でもやれる工夫をする」しかないわけです。

もう一つは、「素質才能は個人に宿る」ということです。こういうのは追いかけても徒労に終わります。だから追いかけません。個人に宿るものではなく、共通に持っているものを追いかければ「はずれ」にはなりません。