守護霊と和の体育

新大阪健康道場は、全国的新規陽性者数が増えている状況、特に大都市部での医療体制がひっ迫していることなどの状況を受けて、当面はいつまでという期限を定めないで休業ということにさせていただいています。

関東は急な、近畿はおだやなかな下り坂のグラフを描いていますが、喜びながらも「ほんとかな」と信じきれない自分がいるのも確かです。

神奈川は18日で900が27日で500人に減少。
検査数は18日で5,000人が27日で3,500人。

東京は10日1,800人、27日で1,000人とすごい勢いで減少。
検査は10日12,000人が27日8,000人に減少です。

大阪府は、11日550人が27日400人と減少は関東よりはゆっくりなのですが検査数はずっと6,000人前後で推移しています。

ようするに、大阪のように検査数を同じレベルで維持していたら、そんなに急に減っていないのではという懸念があります。

そうすると、無症状の感染者が実際にはたくさんいて、水面下で感染が広がると一定期間を経て、症状のある感染者が激増してくるという可能性を否定できないなと、数字を見てそういう懸念を持っています。

上記の数字は、
東洋経済オンラインコロナ特設ページ⇩で見られます。
新型コロナウイルス 国内感染の状況

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「守護霊と和の体育」

なんてタイトルで書いていますが、結論を先に述べておきますと今号から4回ぐらい?に渡って書いていこうとしていることは、いわゆるアイデアをひねり出す際に「この後の取り組みがことごとくうまくった未来の自分に、『ごめんなさい、何をやったらいいですか?』とお伺いを立てるという枠組みで思考回路を起動させたところ、今までよりも良質なアイデアが湧くようになり、実行度合いが高まり、それをやらない時よりも何かはかどった気がする」ということを書こうとしているだけです、ということをあらかじめ述べておきたいと思います。

決して特定の宗教に新たに帰依したとか、教団に所属したとか、そういうことではないということをはじめに書いておきます。

ようするに「未来の自分にお願いしたら、いろいろなアイデアが湧いてくるようになった気がしている」というお話です。

自分であれこれ考えても、時間をかけてプランニングしてもなかなか実行が伴わない、成果が生まれないというような試行錯誤はそれこそ山のようにやってきました。一方で、ふっと犬の散歩の際、通勤の移動の際などに「浮かんでくるアイデア」や「おもいつき」「まとめ」みたいなものの方がはるかに良質であるということはうすうす感づいておりました。

ということは、その「ふっと浮かんでくるアイデア」のようなものが浮かんでくる確率を上げた方が今後にとって望ましいではないかということになり、「何者かにお願いしてお告げを受け取る」というような枠組みを思い出したのであります。

そういう「何か」というものの代表例として「守護霊様」というようなものの存在を言われる方がおられる。その存在を否定する材料も肯定する材料も持ち合わせておりませんので、それそのものは議論しません。否定も肯定もしないというものであります。ありますが、私の中ではその守護霊というものに対してお伺いを立てるという枠組みは、自分自身に対して有効か否かということを検討したのであります。

守護霊という存在がいるのかいないのかは知る由もありませんが、そういう存在があると受け取った方がもろもろメンタルが安定しそうな気もします。

さて、かかる事態に差し掛かった時には「和の体育」では「相互関係の中で考える」という「陰陽思想」を用います。

私の側から考えると、守護霊のあることは非常に都合がいい。ではひっくり返して(陰陽)、私が守護霊になるという事態を仮定すると事態の景色はどのように変わるかということです。

私が今生で誰かを、まったく無私の立場でひたすら応援するというような行為をしたことがあるかというと、まったくそうではない。もちろん災害ボランティアなどで外部から見ればそういうことをしたように見えるかもしれないけれども、そこには「良いことをしている自分に酔う」もあれば「せっかくなんだからやりがいのある活動がいい」という欲もある。そこには無私の私はおらず、無我の私はおらず、嫉妬もあれば、欲もあれば、敵愾心もあるのです。

かかる人生を歩んできた私がその死後、誰かの守護霊になったということを仮定してみると、ひたすら無私の立場でその人を応援し守護するということに没頭するとは全く考えられない。いけ好かない奴だったらちょっとぐらい足を引っ張ってもよかろうとじゃまする可能性さえある。もし仮に、生粋の無私の心でひたすら応援し、守護するというような行動が私がなりえた守護霊が行っているとすれば、それはすでに私であって私ではない。

したがって、私が人に対してそういうことをしそうもないのに、私だけは無私の守護霊様にことごとくお守りいただくというのは誠に虫のいい発想であるということをぬぐいされないから、今後の行動を占うのに、守護霊にお伺いを立てる、ということを可能性から外した筆者でありました。

 

誰かの言説をうのみにしないで、自分でも調べてみる、考えてみる。それが楽しめる心身を作ること。それも整体です。

生活整体研究家

津田啓史