東日本大震災でのボランティア活動記録 5月5日 祭りで復活石巻(前編)

緊急事態宣言の発出を受け、5月11日までは休業を決定し、現状ではさらに延長もやむをえないと考えています。理由は大阪府の医療体制のひっ迫具合です。

今日も、3月末に引き続き、10年前の東日本大震災でのボランティア活動記録の5月5日分を転載します。

毎年5月5日が春の例大祭だった神社。がれきに埋もれて絶対に無理だと思われたのを、ボランティアたちが片付け「もしお祭りがやれたら地元の人がちょっと元気になれるかもしれない」と参道をボランティアの炊き出しで埋めた2011年5月5日の石巻の神社でのお祭り復活の実話。前編です。

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『5月5日 祭りで復活石巻(前編)』

祭り当日。例のごとくボランティア宿舎の朝7時のミーティングが始まる。多くのチームが祭りに協力して神社に合流するが、また多くのチームがいつも通りの活動を守る。

「炊き出し班 おざざチーム」

「大街道小学校ブロードウェイ食堂700食。200食デリバリー、30食釜会館です。夕食炊き出しは、今日は150~180食です」

ちなみに、このブロードウェイ食堂という名前は、写真は後回しのカメラマン・有人さんの命名らしい。ブロードは「大きい」「広がり」の意味で、ウェイは道である。大きい道=街道で大街道。ちょっとしゃれてません?

「湊中学校・みなと食堂です。炊き出しは200食。デリバリーは昨日で終了しました」

「神社でcafeです。チャイのカフェをやります。三線(さんしん)カフェやろうと思っています」

「大衆食堂ジプシーのバブです。(昨日は大衆食堂カリフォルニアと言っていた)今日は神社で『鳥の唐揚げ』をやります。昨日の炊き出し実績から見て、1300食ぐらいいくんじゃないですか」

「では、マッドバスターズ、どろ出し・がれき撤去班」

「助さんです。今日も牡鹿半島の浜の漁具回収をやります。日本財団ボランティアなど大学生、防衛大学の学生も合流して150人、一緒にやります。」

「クロさん、何か追加ない?」

「今日は東北方面の自衛隊の総監部、つまり東北の自衛隊で一番偉い人が防衛大学生の活動を視察に来ます。」

防衛大学生のいわばボランティア活動を、総監部の偉い人がわざわざ視察に来るというのは、かなり異例なことのようだ。

「自衛隊ですから、防衛大学生も部隊の人も、きちっと並んでお出迎えです。これにもちょっと行ってきます」

「ユニック鈴木さん」

「昨日は、丸太60本ぐらいどかしました。今日も牡鹿組と連携です」

「八ヶ岳ピースワーカーズ」

「ちゃんです。今日はお祭りで、カフェと、おでんやります!」

「キッズチーム なべちゃん」

「今日のお祭りには、ミュージシャンが何人か、それから大道芸とか来ます」

「移送チーム レラさん」

「移送チームです。今日も市内人工透析の方を中心に10件以上の移送要請が入っています。…けど、お祭り行きた~い」

「祭りプロジェクト」

「茂木です。僕は明日神社でお地蔵さんプロジェクトをやります。」

茂木さんの足下の座り机には、半製品の粘土のハニワみたいなものが多数置かれている。「希望する人には、この泥人形を願いを込めてお地蔵さんに作ってもらいます。できたそれは、神社でちゃんと拝んでもらって、そして焼いて(茂木さんは陶芸家である)完成したものをちゃんと奉納してもらうことになっています」

「いまちゃん」

「私、こんなに悲しいこどもの日は初めてやねん。福島の原発のんとか、こんなひどい状況を子どもたちに背負わせることになってしまって。」

「お祭りいうのんは、神事やからね。その土地の人が大事にしてはる、そこの神社の神さまの神事やからね。イベントやないからね、そこのところ気をつけてやらなあかんねん」

「ひーさん」

「祭りをやるなんて、最初っから全然考えていなかったんです。前にボランティアに来た時、もう活動を終えて帰るという頃、大宮神社で桜の倒木を見ました。見たら、倒れた桜にちゃんとつぼみがついているんです。俺、すっげえ感動しました。それで、何でそう言ったのか自分でもよく覚えていないんですけど、宮司さんに『この桜が咲くころには、この神社を片づけにきっと来ます!』と言ってたんです。」

「そしたら、ほんとうに桜が咲くころに来ていました。でも、最初は無理だ、片づくのかなと思っていたんです。それがのべ100人、300人というボランティアが入ったらどんどん片づいていきました。そしたら何かやれっかなという気持ちになってくるんですよね」

「俺、東北の生まれなんですよ。東北というところは、神社を中心にした地域のコミュニティが強いんですよ。東北は祭りが中心なんです」

「だから、片づいてきた神社で何かできないかなと。だけど自分たちは部外者だから、できない。神社でやるんだったら土地の人がやらないと。そうしたら宮司さんもやろうと言って下さったんです。」

「だから、今日の祭りで、地域の、石巻の復活の第一歩になれないかなと思っているんです。だけどね、祭りというのは、地域の祭りだからね。部外者の俺たちだけが盛り上がってもだめだと思うんですよ。イベントになっちゃいけない。そこみんな気をつけたうえで、思いっきり盛り上げてほしいです。」

軽トラに太鼓を積み込む。一台には乗りきらないので、もう一台は後藤棟梁が運んでくれる。朝の整体チームミーティングを終え、祭り会場へと向かう。海側を走る国道を北に向かって、つぶれたシェル石油の三叉路につきあたり、右に入ってすぐが大宮神社だとマジックで手書きしてコピーしただけの祭りのちらしに書いてあった。

はいはい、ちゃんと誰かが看板を作って表示してくれています。このあたりが渡波(わたのは)地区だ。

一帯はがれき化しているか、とうてい住めないレベルで破壊された家が圧倒的に多く、無事な家も一階は泥に浸かっている。壊れた家も流されてしまわないで、ほぼその場にある家が多い。神社に続く道の途中、道路側にかしいで大きく傾いている家がある。通常なら、ロープでも張って「危険」の表示でもありそうな状態だろう。

がれきの向こうに松の木が見える。あそこが神社だ。神社に近づく途中の道の両側も、ほとんどがれきと化した家しかない。

神社手前まで来た。大きく「祭」と書いた看板を出して、車が迂回するように、交通規制をしている。

担当しているのは、けーた(だんじり若衆・岸和田中町)くんだ。太鼓を積んでいるので、顔パスで通してもらって、だんじり青年の誘導で、神社裏に車をつける。

小学校中学年・高学年あたりの子どもたちが、周辺から続々と自転車で駆けつけている。勢い余って目の前で一台ひっくり返った。でも元気だ。あっちにもこっちにも子どもたちがいっぱいだ。本殿側にも、あとからあとからたくさんの人が詰めかけているのが見える。ほんとうにお祭りの雰囲気だ。

車を停めて坂をあがると本殿裏だ。今上がったこの少しの坂は、この地区の多くの命を救った救いの高低差だ。海沿いのこの地区の、数少ない高い土地が大宮神社だった。

ここに逃げたという話を聞いたおばちゃんの、足下を波が洗ったそうだ。

「もう少し高い波が来たら危なかった」

本殿裏のスペースは、「癒しとすっきりの空間」だ。

本殿から一番遠い側には「日本財団ボランティア・足湯隊テント」十数名が陣取っている。私の第一次石巻遠征二日目から二日間、湊小学校で一緒に活動した時の女性メンバーも何人か見える。一度帰宅してふたたび参加の「お帰り組」である。

ただし、私の記憶メモリーは7:3ぐらいの割合で、選択的に女性の方を記憶するようなので、お帰り組にもかかわらず初対面顔で接せられた男性足湯隊員がいたらごめんなさい。

同じテントの本殿に近い側は、我らが整体チームのコーナーだ。「今日の予定は午後から避難所・せめて午前中は祭りに行きます組」が、さっそく整体や足つぼを始めている。

本殿間裏・ひーさん&まるおの静かなバトルの正面では、リラクゼーションチームの美容師組・精鋭4名だ。

地面に杭を打ち込んで鏡を取り付けている。きっとミュージシャン大工@黄色の雨合羽さんのお仕事だろう。おっと、そのミュージシャン大工が、「あっちでもらってきた」と大型の鏡台(ただし泥まみれ)を担いできた。

ずらり4人四角く並んだ美容師の前には、お母さん、おばあちゃんが早くも順番待ちの列を作っている。(ひっくり返したビール箱に座ってね)

吉田くん@整体のできるテニスコーチが、持参したスピーカーで「情熱大陸」をBGMにがんがんかける。

ふふふ、これで順番待ちのみなさんは「きっとこの美容師さんたちは都会のカリスマ美容師さんに違いない」と思いこむであろう。

裏をばらすと、被災地入りする直前まではさみを握っていたのは、今日から参加のえびちゃん一号だけである。(この三日後に偶然海老沢さんという同姓の美容師が参加したので、彼ら二人の区別を「えびちゃん一号 二号」と表記することにする。ただし。えびちゃん二号と私はすれ違いの活動なので、えびちゃん二号さんがこの後登場する可能性はまずない)

美容師チームただいまのリーダーまいちゃんは、ネパール(たぶん)、わたる君は中国の奥地でそれぞれ東日本大震災の報を聞いて、緊急帰国して後、石巻に駆けつけた「海外駆けつけ組」だ。

ゴトーさん@北九州は「彫り師」である。18年前の年末、28日にその年の最後の仕事を店長として終えた時に、オーナーから「おまえ、来年からもう来なくていい。おまえ一人の給料で小僧が二人雇える」と解雇通告された。

「腹がたつけぇ、それ以来ハサミは握っとらんかった」

そうだが、解雇理由については

「まっ、オレの素行にも、そこそこ問題があったような、ないような、ぐわっはっっっはっは」

という「偽装カリスマ美容師4人組」は、このまま夕方すべてのお店・コーナーが終了した最後の最後までぶっ続けでカットし続けることになる。

本殿の横に回ると、長蛇の列が。本殿から横に伸びているのは山形県(確か)からの「ポン菓子(人によっては爆弾あられともいう)」の炊き出し屋台。

その隣では「め」組メンバーが、ひまわりの苗を配っている。本殿から参道の石段に向かっているのは、「三人餅つき」&「つきたてお餅であんころ餅ときなこ餅」の炊き出し屋台だ。

南境生活センター・技能ボランティア集団の胃袋と健康管理を一手に支える「生活センターの母」今ちゃん(ふだんは和歌山で考古学だったか化石だったかの発掘のお仕事らしい)が、昨夜せっせとしこんだ「あわもち」はここに合流だ。

境内を越えて石段まで20人はくだらない長蛇の列。 本殿の前には「みこし会」が持ち出したおみこしが鎮座され、昨日「大指林業センター避難所」からお借りした二台の太鼓は、みこしの前にずどんと置かれている。

本殿にあがる階段には、参拝者がひきもきらない。来る人来る人ちゃんと参拝していかれている。

神社は地域の中心だ。だから神社の祭りを復活させて、そこから波紋が広がるように地域再生ができるんじゃないかと考えた、この祭のいわば実行委員長のひーさんの見込みは当たったとはいえないか。地域の人は神社を大切にしている。

本殿をはさんでお餅コーナーの逆側には、子どもがいっぱいだ。神社に落ちている松ぼっくりをボールにした「的当て」がある。松ぼっくりが入った的で、景品が1位2位3位という趣向だ。隣の輪投げにも子どもがいっぱいだ。

向かい合わせに設置されているのが、景品マーケット。南境生活センターで、昨夜せっせとダンボールで看板をつくったり折り紙で飾りや景品を作っていた「武蔵野美術大学 今日が最終日、祭が終わったらこのまま帰りますの5人組」(6人だったかな)は、このマーケットの担当だ。

「チャンバラやるよ~、チャンバラ大会やるよ~」と呼び込みお姉さんが歩いてきた。今時の子どもにチャンバラなんか受けるのかな?と思っていたら、お姉さんの後にはずらり7~8人の子どもたちがちゃんと二列になって嬉しそうに一緒に練り歩いている。

チャンバラ会場は、輪投げコーナーの向こう側。ふだんはお相撲の土俵だ。子どもたちが頭に紙風船をくっつけて、安全な棒で熱狂してる。

景品コーナーの裏、本殿の左横のスペースはイベント広場。のちほど、ここには芸達者たちがいろいろな舞台を繰り広げることになる。

これで本殿の周りを一回り。本殿前の石段から見下ろすと、一面ががれきの海。大げさでなく見渡す限りのがれきの海。そこだけきれいに片づいた小さな神社の空間に、どんどんどんどん人が押し寄せてくる。

階段のすぐ下の行列は「ボーイスカウトたい焼き隊@子ども店長」だ。まるおさん曰く「ボランティア中の食生活が偏っているからそう感じるのではなくって、本心から僕の生涯でこんなにおいしい鯛焼きを食べたことはなかったなあ。津田さんもぜひ食べた方がいいよ」でも10人以上が列になって並んでいるので断念。

まるおさんが守る本部テントの向こうは、どっかの組の親分さんと言っても、10人が10人信じてしまうだろう大貫禄のバブさん率いる「カリフォルニア食堂(何でそう言われているのか不明)」の一揚げ入魂の唐揚げ屋台。ここはさらに長い行列だ。

お向かいの「被災地救援 ナースの会」(名前はうろ覚え)がやっている救援物資マーケットに人が群がる。

一人で200食は可能と豪語する、北海道から来た「遠軽おじさん」(整体チームスタッフ間でその名前は鳴り響いていたが、ついにお会いできなかった)の石狩鍋はすでに売り切れ(無料だけど)したらしい。

突き当たりでは、画家の人が即興で祭の絵を書き始めたところだ。

本殿前に戻る。バチを手にする。

「三人突き餅つき」に合わせて、景気づけの太鼓を叩く。

11時になった。本殿では神事が始まる。(つづく)

 

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝