㉞日本海ボランティア、そしてサラリーマン生活

なかなか進化体操の誕生に向かいませんね。面白ければお付き合いください。自分でも気づかずに、どこかでつながっていることを思い出してくるような気がしています。

進化体操講座で、最新の進化体操実習手順をならった方は「左右のルール」を取り入れましたよね。あれもこのボランティアの数年あとに、河野先生のもとで学んだ身体の動かし方でした。日本人の身体操作・身体文化の解析として学んだものがベースになっていました。

それをヒントに作ったということではなく、自分の体感をもとにして「この方が断然身体がよく動く」とルール化した後で、なんだ20年に学んだ原則だった、と気づいたというような流れです。

日本海重油流出事故でのボランティアには、確か10日ほど三国町で活動しました。この時に知り合ったのが阪神大震災で生まれた「神戸元気村」の方々でした。二年前に「テレビでみたぞ、この元気なおじさん」というのが代表の故・山田和尚さん(通称バウさん)で、その後ずっとのお付き合いになりました。お付き合いというよりも、災害ボランティアの「師匠」として勝手に精神的に師事していた、というのが実際ですね。

1月から3月までの間に延べで一か月以上、福井県でボランティア活動し、この時には整体を勉強し始めてから一年以上は立っており、海岸の重油をすくい、ぬぐい、砂浜にまざった重油の塊をふるいにかけて回収するという活動地で、まだまだ下手くそでしたけど、整体簿ボランティアデビューを果たしたのでした。

ずっと後年になって、東日本大震災で活動できたのも、この時に知り合った人たちのネットワークがあったからです。

春までボランティア活動をして、4月からは二年間親戚の会社でサラリーマンをやりました。このころ、長男が色覚異常があるのがわかり、その治療のために毎月東京まで泊りがけで通うことになり、その時期にちょうど河野先生が東京で整体指導者の養成コースを始められ、それがちょうど土曜日の夜だったので、土日で長男の治療に通い、夜は河野先生のところで整体を学ぶということをしばらく続けました。

そして二年後、サラリーマン生活は終え、河野先生の活動の大阪事務局長兼道場長として河野メソッドを学ぶ生活となります。