10年前の今ごろ、宮城県石巻市で整体ボランティアしていました その記録4
「10年前の今ごろ、宮城県石巻市で整体ボランティアしていました その記録4」
【4月3日】
朝からボランティアセンターでリクルート活動。大阪から参加の足つぼができる森光仁子さんと、心理療法士の掛井さんが参加。
昨夜合流の鍼灸師の渡瀬さんなどチーム総数がついに10名へ。整体オンリーのチームが足裏から鍼灸、さらに心のケアまで広がっているのである。
今日も、日本財団足湯隊とジョイントできる部分はジョイントする。湊小学校の他に、午後からは湊小の4~500メートル北にある祥心会という福祉施設でもやるとのことで、そちらへの合流を前提に一日をスケジュールする。
ここまで個人名はあまり出ていないが、一緒に活動をスタートした採澤和正君とは、今日まで、ほぼずっと一緒に行動している。
彼は、阪神大震災を中学校の時に伊丹市の自宅で被災。数週間無気力状態になったという。京都大学に現役で合格したからかなりの高い偏差値である。合気道の有段者であったが、気の存在を信用しておらず、大学生の時に達人はほんとに達人なのかツアーを実行していて、その一貫として私の整体の師匠(実は幼なじみ)の河野智聖をたどる途中で、私の道場を体験。
私に気の手当をされていた時に、骨までふにゃふにゃになる快感で不覚にもよだれをたらした体験と、受講生同士の手合わせで、何かが腕から頭の中に上ってきて、その瞬間花粉症で詰まっていた鼻がすぽんと開通したのをきっかけに気の整体、気の武術に目覚める。
卒業後は、ベンチャー企業での数年のサラリーマン生活をしながら整体や武術の修行を進め、今では河野智聖の内弟子として活動する日々であった。
ここまで、活動が破綻しないで続いているのはひとえに彼のおかげである。私が錯乱している時には、彼がちゃんと取っておいたメモで翌日の活動先が明記されており、私がマスコミとけんかしている時に、横で淡々と打ち合わせを進め、私が与太話に興じている時に、着々と他団体の方と情報交換をする。
体と胃袋は余分に大きいといつもからかっていたが、余分に高い偏差値はちゃんと世の中の役に立っているのである。
だから、ここまで津田の活動のように書かれているすべての活動は、ほぼふたりでやったものと読みかえていただくと実際に近くなる。
いろいろな思いつきが実現していったのも、相談相手としての彼がいたからである。一度口に出すことでそれは形になりやすくなる。個人の中に思いつきのままとどめておいたら、それはそのまま消えたかもしれない。とっぴな思いつきも、相談という形で言葉が行き来しているうちに、実現性の高いものへと形を変えていく。
今日は午後からは湊小学校+祥心会へ合流という前提で、午前中は行き道の途中にある石巻大橋のたもとのOさん宅を一度フォローし、その後は採澤情報で湊小と祥心会の間にある「明友館」という施設にも状況確認をかねて訪問するということになった。
Oさんご夫妻はずいぶんと明るくなっていた。奥さんの方は、前回訪問で予想以上の回復にるんるんでいたら、直後に移送チームに北海道のNHKが張り付き取材をしていて、そのテレビ付き訪問を受けたのだそうだ。それでインタビューを受けたりするうちに「すっかり緊張してしまって、せっかくの効果がどっかへいってしまいました」(ちなみにそのインタビューは、翌日全国放送される予定だと言っていた。)
とはいうものの、ずいぶんと明るくなっていて、調整を終えると今度は杖なしで5分以上も立てるようになりました。
橋を渡って明友館へ。市民会館のすぐ北隣にあるここは200人規模だと聞いていたけれど、施設規模はそれほど大きくない。
代表は千葉さんという。痩身・革ジャン・リーゼント・口ひげ・くわえたばこである。キャロルをおっさんにしたような風貌である。(革ジャンではなかったような気もするが、記憶にある千葉さんは革ジャンのイメージである)
あくまで噂であるが、元は暴走族ないしはそれに準ずる団体の上の方の人だったという。噂である。しかし、現在は避難所の行動隊長である。総長である。(実際に『隊長』と呼ばれていた)
千葉さんの活動のユニークなのは、他の追随を許さない?玄関にずらりと関東ナンバーのスーパーカブのようなバイクが並んでいる。元職(?)を生かした「救援物資バイク便」である。がれきや道路の崩壊で救援物資が届きにくい沿岸部・半島部の僻地などでも、車でだめでもバイクならば可能なところはある。
どうやって資金や物資を調達しているのかは謎だけれど、西に食料がないと聞けばバイクを走らせ、東に燃料がないと聞けば燃料を届ける。宮沢賢治の詩のような活動をする千葉さんチームである。後述する北上の大指林業センターも、ここの支援範囲だったようだ。
そういう活動の裏支えになっているのが、昔やんちゃをしていた時の「反社会的?活動時人脈」だ。(噂である。あくまで噂である)
数日後に計画している「岩手県・陸前高田方面訪問」に関して道路状況などをお聞きすると、1~2本の電話でたちどころに最新情報が得られる旧・反社会的活動時人脈であった。(噂である。あくまで噂である)
お昼過ぎまで、整体・鍼灸など活動する。昼間だということもあって、在室する人の数はたいして多くないから余裕の施術である。しかし、前記したように「災害時のバカ力(ばかぢから)」のようなものは確かにあるとまたまた実感した。
脳梗塞の後遺症で腕が上がりにくいという方を二人で施術した(誰かが一人が担当したのち、仕上げを任されたようなチームプレー)。すると、腕が回らなかったという腕を大車輪に回転させるようになった。さらに少し書くとつらくなるという文字を書くという行為が、すらすら書けるようになった。
その男性は、感動してその試し書きをしたメモ用紙をくれと言う。そこに日付を書いてくれ、記念品にするからと。
被災地は大変だ、というのは紛れもない事実。だけどその体の内側には、対抗する力がぐいぐいと圧力を増しているんだ。そこにほんの少しの気の利いた他者からの働きかけがあるとき、その力は放出されて形になる。復旧・復興活動とそれを助けたいとするボランティアたちの間にも、きっと同じ見えない力があると確信する。
昼ごろになって「炊き出しが来ているよ」と声をかけ合っている。家族の分の「炊き出しうどん」を取りに行く娘さんがある。整体も一区切りついたので、余裕があるようなら食べに行こうかと階下へ降りる。
こういう話を書くと、「ボランティアというのは自己完結ではないのか、被災者向きの炊き出しを食べるなんてボランティアのルールに背いているのではないか」と「聞いたことのある話」を元に怒る方もあるかもしれない。
おっしゃる通りである。ボランティアは本来自己完結であるべきだ。私の持参しているものの中には干し芋やら菓子パンやら昼食の用意はある。私が言っているのは「余裕があるなら頂く」である。被災者に足りないなら食べはしない。
だけど、炊き出しで残っても困るのも事実である。特にうどんなんかは明日に使い回しはできない。そうでなくても、電気は来てないから冷蔵保存はできない。炊き出しする側だって「完売御礼」の方が気持ちがいい。昼の炊き出しなら昼で完食されて、撤収できる方が時間のロスもないのである。余裕があるかどうか確認して、あるようなら喜んでいただく筆者である。
炊き出しうどんを一階のロビーで頂いていたら、家屋内泥出し部隊の小チームのリーダーらしき女性が入ってきた。
「あの~、被災者じゃないんですけど、頂いてもいいんですか?」
「十分に用意してますから、大丈夫ですよ」
「じゃあ声をかけてきます。ありがとうございます」
しばらくしてその女性だけが帰ってきた。他のメンバーは長靴の泥でも洗っているらしく、先にうどんをすすっている。炊き出しのうどん屋さんが話しかける。
「どちらから来られたんですか?」
「鹿児島です!」
鹿児島ねえ、確かテラルネッサンスさんのミッションで、石巻にラジオを届ける作戦の、メインでラジオを集めてくれたのが、鹿児島の人だったなあ。と思いながら、その女性の胸に貼られているガムテープの名札を見る。大きく「みゆき」と書いてあって、その上に小さく名字が書かれているようなのである。
たしか鹿児島ラジオ収集部隊のメインの人もみゆきさんって言ったけど、まさかここで会うはずないよなあ、と思いながらさらに胸もとに顔を近づける。そこには小さく「橋の口」と書かれていた。テラの鬼丸さんのメールで見た名前って確か橋の口みゆきさんだったような…。
「あの…、ラジオのみゆきさん?」
みゆきさんにすれば、あっちの方でうどんをすすっていたおっさんが、いきなり近づいてくると、顔を見ないで胸を見て(言い訳 顔は知らないんだから名前を書いてある胸を見るしかなかった)いきなり「ラジオのみゆきさん?」と声をかけられたので、訳が分からなかったらしい。困惑するみゆきさんの顔に言葉を足して言い直す。
「鹿児島で、石巻向けのラジオを集めていた橋の口みゆきさんですか?」
「はい、そうですけど??」
「私、そのラジオをテラルネッサンスで預かってここまで運んできた津田です」
「あ~、津田さん~」
おもわず手を取り合って、初対面をよろこぶ二人だったのである。
最初のお仕事は、ラジオを集めて石巻に届けることだったので、出発から到着までは、輸送状況をテラさんとみゆきさんには再々メールで送っていたのである。だから面識はなかったけれど、みゆきさんにしたら確かにラジオを託した人として記憶には刻まれていたのである。
ラジオプロジェクトの時には、鹿児島の人だと思っていたので、まさか現地で会うなんて思ってもいなかったが、津田も偶然選んだ避難所で、みゆきさんもたまたま泥出しに来たのが明友会の近所だったという次第で、偶然のたまたまの炊き出しに出向いたから会ったのだし、炊き出しのおじさんがどこから来たかと尋ねなければ分からないままだったかもしれない。しかし、こういう偶然が頻発するのが被災地なのである。
その夜のNPO連絡会が終わって、各分科会に分かれて打ち合わせをしていた時の話。採澤君に電話があり、しばらくふむふむと相づちを打っていた彼だったが、
「ああ、そこやったら今日のお昼に行ってきたで、ほなさいなら」
と電話を切った。何の電話だったかと話を向けると、後輩から泣きながらの電話だったという。
「採澤せんぱ~い【号泣】、僕の知り合いが【号泣】石巻で避難所のリーダーをやっていて【号泣】必死に物資を配送したりして【号泣】がんばっているんですけど、【号泣】僕は東京を動けなくって、何もできないんです【号泣】。採澤先輩、石巻にいるんですよね、僕の、僕の分までがんばってください、そして知り合いを助けてください【号泣】知り合いというのは、千葉さんと言って【号泣】明友会という避難所でリーダーをしているんです」
「ああ、そこやったら今日のお昼に行ってきたで、ほななさいなら」
いつもはいない神様も、こういう緊急時に立ち上がって活動している人の上には舞い降りるんじゃないかなと思う津田であった。それにしても、こうやって文章にするとなかなか感動的な話だが、端で見ているとまことにあっさりした沈着冷静・採澤君なのであった。
ちなみに、この日「祥心会」の方には採澤君が赴き、筆者は湊小学校に向かった。整体初お目見えの祥心会では「整体受けたい人~?」と聞くと、全員の手が上がり、採澤君午後だけで連続35人整体という自己記録を樹立したとのことだった。
私は、湊小学校に行き、おなじみになった「5年1組」にとりあえず顔を出すと、
「先生、今日は朝10時から整体来ると言ってたから、体育館の方に行って10時から待ってたんですよ」
「いえいえ、どうもすみません、あれこれ調べることもあって」
という具合に歓迎され、予約を心配することもなく、着々と整体できるようになっていたのでありました。でも、これを最後に湊小学校には行けていない。腱鞘炎のあの人、腰痛のあのおじさんなど気になっているのだけれど…(転載ここまで)
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全部でA4 110ページもの記録なので、転載はここまでとさせていただきます。
GWごろに再度また転載の予定にしています。
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