㉚そして阪神大震災 その2 

震災の当日からその後をくわしく書き出すと、自伝になってしまいますので、ここでは少量に割愛します。前話で書いたように、阪神大震災がなければ、二カ月後の3月末で、とりあえず具体的なプランは何もなかったのですが、大槻ヨガは退社するという予定になっていた、というのがそれで吹き飛んだ、ということです。

大槻ヨガの本部というところは、尼崎の北部を東西に横切る阪急神戸線の塚口駅の近くにありました。当然、通って来られる方の多くがその阪急電車を利用して来られる方が多い。

しかも、東に向かえば大阪市ですから、競合も多い。結果として西側から阪急電車に乗ってこられる方が大量におられた。その阪急の駅でいえば、塚口はなんとか無事、西へ一駅の武庫之荘になると、駅前の大きなマンションの一階駐車場がつぶれて傾いているのが電車から見え、数日で動くようになった阪急電車もさらに西隣の西宮北口より西は不通で復旧のめどはまったく立っていません。

その阪急西宮北口の周りは、もう探しても無事な家の方がないぐらいの惨状でした。

ようするに、大槻ヨガという団体も存続の危機にさらされていた、というような状況だったので、とても退社して独立してコツコツ始めるというような状況にはなかったのです。

いまでこそ、被災地に出かけて災害復旧のお手伝いをしたり、そういう団体の理事をしたりという私でしたが、実は阪神大震災の時には、連絡がつかなくなった知人をバイクで自宅まで安否を訪ねて行ったということぐらいで、いわゆる被災地救援活動はまったくできませんでした。

テレビでは活躍するボランティアなどが報道されています。まったく休みがなかったヨガの会社でしたが、そのころは師匠の奥様による待遇改善、きちんとした株式会社の体裁が整っていて定期的な休みも取れるようになっていました。それで休みになったら、被災地に行こう、行って何かしようと思うのですが、まったく身体が動きません。

伊丹にあった自宅から、軒並み家が傾いたりつぶれたりするような地域、宝塚や西宮までそれこそ自転車でも行けるぐらいの距離なのです。10キロと離れていません。5~6キロ行けば激甚災害の地域に行けるのです。

でも、身体は動きませんでした。