㊷ナホトカ号の重油流出事故現場で

そこから十数年たった話です。阪神大震災に被災します。激震地に近い伊丹市に住み、そこからなら自転車でも行ける距離にぺしゃんこになった家だらけの宝塚や西宮があるにもかかわらず、ほとんどなにもボランティア活動ができなかったのが、一種のトラウマになってしまいました。

震災から二年後に日本海でロシア船籍のタンカーナホトカ号が難破し、折れた船首が福井県の三国町沖に漂着し、何十キロという海岸線が重油で汚染されるという事故が起こりました。

その事故が起こったのが大槻ヨガを年末に辞めた数日後の1月4日ごろ。私は、4月からは親戚の会社を手伝うということがきまっていたので、就職先探しのプレッシャーのないのんきな無職の時期でした。このときは「もしも今回も何もうごけなかったら、もう自分がダメになる」という思いで福井県に向かいました。

現地では全国各地の老若男女が集まっていて、特に遠隔地のボランティアは、海岸沿いの集会所、地区の公民館のようなところで、区民館と呼ばれていたところを宿泊所として提供してもらいました。

到着した翌日。ボランティアセンターからトラックの荷台に乗せられて海岸へ。そこは道路沿いの防波堤からテトラポットが積み上げられた波打ち際まで階段で降りられるようになっているところでした。そこで何人かが胴長靴を着て海に入り、水に沈んでいる茶色いつきたてのお餅のような重油塊をすくいあげ、それをバケツリレーをして、防波堤の上に並べている軽トラの荷台のドラム缶にあけていくという作業です。

重油をあけて空になったバケツは、上りとは逆側のところから「重油回収組」のところにこれまたリレーで降ろされます。

最初は少人数でやっていたのが、比較的近い地域の「地域動員」みたいな団体が次から次へと参加してどんどん巨大な、最終的には200人ぐらいが参加する大バケツリレーになりました。

私は、きわめて肉体疲労に弱いので、何十分かやるともういい加減いやになりました(笑)。作業はしたいが、疲労はしたくない。でも実際にはそのバケツリレーというのは、しょっちゅう止まるので、いい休憩にはなります。しかし、急に止まってまた急に動き出すので、気分的にはあまり休めません。

人はどんどん増えていくので、バケツリレーにもだぶつくぐらい多くになっています。私一人抜けても誰も困らないような状況だったので、列を離れてテトラポットをよじ登り、なんでリレーが「ストップー!」と上から声がかかるの見に行くことにしました。