疫病神がまん延していますが 1

「疫病神がまん延していますが 1」

ところで、近親者の中に全く働かないで寄生するような人がいた場合に「〇〇家の疫病神(やくびょうがみ)だ」などと称します。なんとなく経済的損失を与えるものという文脈で使われます。が、疫病神というのはもともと「疫病(えきびょう)」を流行らせる神のことです。

昨年から今年にかけては世界的に「疫病神」がまん延してしまっています。

ちなみに100年前の「スペイン風邪」の際には、5500万人の人口の日本で推計43%の2380万人が感染して39万人(45万人説もあり)が亡くなられています。江戸時代に疫病がまん延した時にはもっとすごい致死率だったことも多いようです。

江戸時代の疫病なら、ほんとに祈るしかない。そしてよく考えれば令和の今、疫病対策も各段に進歩しています。神様にお願いしなくても、人知で対応できることがたくさんあります。

PCR検査だってあります。地域ごとの感染状況というものも簡単に知りえることができます。高性能のマスクも手に入ります。アルコールもずいぶんと安くなりましたし、在庫も山積みにあります。ワクチンだって作られています。感染のメカニズムだって、江戸時代と比べれば格段に解明されています。

だから、対処できる方法がたくさん用意されているのです。神様にお願いするしかないのではないのです。人の手の力でやれることがたくさんあるのです。スペイン風邪のときとは全然違います。あとはどれだけの密度でやるか、精度でやるか、はたまたやらないかだけなのです。

もう一歩進めようと思えば、政府が財政出動をして、経済的に困窮している人を助けることだってできます。病院の経営を支えることもできるし、金銭的な優遇で病院に人を集めることだって可能です。

さらに発想を柔軟にして、東京都知事選所のときに山本太郎さんが言っていたように、「コロナ禍」を災害と認定すれば、災害時のように被災者に対していろいろな手の差し伸べ方をできます。

災害の時に物資が配られ、避難所が用意されて食料が配給され仮設住宅が用意されますね。それは法律でそういうことができるように定められているからです。水害や津波だったらそれぐらいしてもあたりまえだと思いますよね。

でもコロナによって生活の危機に陥って、住むところがなくなったり収入を絶たれたりした人はたくさんおられます。少々の災害よりも被害は大きいかもしれません。だから災害と認定すれば、災害救助の法律の対応できることは対応できるようになるのです。

災害で家が流されても、コロナ禍で家賃が払えずに家を出ていかざるを得なくなったとしても「収入が絶たれて、住むところも無くなった」という結果は同じです。
(つづく)

 

個人の整体を研究すると、国も整体が必要だと思わざるを得ない生活整体研究家

津田啓史