そのものの価値や特性は「ない」と考えるとわかる

新大阪健康道場は、大阪府の緊急事態宣言を受けて、現在休業中です。

来週ぐらいから、全面的でなくても再開していきたいと思っていますが、地震などがあったので、ちょっとあいまいになってきました。

********************************************

「そのものの価値や特性は「ない」と考えるとわかる」

●和の体育

「和の体育」というものを提唱し研究しています。

〇「和の体文化(武術や武道や諸芸や日本の整体)」から学ばせていただいたことをベースに考える体育」

〇身体の部分に負荷を強いるのではなく、全体が協調して無理なく動ける動きを探求します

〇個人単独で性能の向上を考えるのではなく、自他の関係の中で最も適切なのはどうあることかを考える

〇最新のものを追いかけるというよりは、「本来、元々はどうだったか」を常に考えて、「あるものを育てよう、育(はぐく)もう」という「育てる」体育

というのがベースです。今回は和の体育の視点で言えば最後の

「あるものを育てよう、育(はぐく)もう」という「育てる」という切り口です。もともとどうなっているかということを調べて、その特性を生かそうよという発想です。

過去の記事でお金のことをずっと考えてきていますが、お金のことを考えるなら、「お金がない社会」というものを想定するのが一番わかります。お金をこねくり回してややこしい経済理論とかをほじくりかえすと、かえって実態が見えなくなります。

お金がなくても大丈夫になるにはどうしたらいいのか、ということをまず考え、そこにお金というものを加えれば、何が促進されるかを明らかにする。だからお金というシステムを採用して、それを生かす方法が分かるということです。

 

●それが「ない」と考えると特性が見えてくる

若いころは「なんでこんな勉強しなくっちゃいけないんだ」なんてことを考えます。考えました。考えてないですね。不満に思っていました。「何のために勉強をするのか」というテーマです。よくわかりません。

偏差値のいい大学にいって、学歴をつけて就職を有利にしようなんて価値観がそこにまぶされています。高校や予備校や学習塾の外壁にも「国公立現役合格何人!」「京大医学部入学 山田太郎君」みたいな垂れ幕があったりします。だから高校そのものがそこに価値を置いていて疑問を持っていないという表明になっちゃうのにな、などと私のようなひねくれものは思います。

逆に、この世の中から勉強するということを無くしたらどうなるかと考えればいい。そうすると先人が一生を賭けた知見を、例えば一冊の本の数時間で追体験できなくなるということです。ご先祖様たちが苦労して作り上げた技術が伝承できなくなります。ベースが無くなります。すると次世代に伝えることもできない、などなどの見方が生まれます。

先人たちがここまで来たというのを勉強して確認しておかないと、自分が何をやればいいのかも不確かになります。私が進化体操やマイクロストレッチを普及しようとしているのも、私以外に進化体操(似たものはありますけどね)をやっている人がいない、マイクロストレッチ的なものが他になさそうだからです。

別の人が進化体操のさらに先にある多くの人にいいものを作り上げていたら、いまさら私がやる必要がありません。みなさんもそっちをやった方がいい。

というので、ある程度は私がやっていること以外のことも、視野にいれるようにしています。

そういう視点にたって「何のために勉強するのか」ということを考えたら、もっともっと学びも自由で多様で楽しいものになり、かつ必要性も重要性も増すのではないかと思います。

「何のために働くのか」でもなんでも疑問に思ったことは一度「それがなかったら何が損なわれるか」という視点で見直すといいと思います。ということを自分で書きながら「いい考え方だなあ、多角的にやってみよ」と自分でも思ったので、たぶんなかなかいい方法です。
(つづく)

 

国の在り方が、すべての人が安心して生活できるようでなければ、整体も体育も成り立たないから、国と経済というものを考えざるを得ない、生活整体研究家

津田啓史