㊻整体というのは「チーム身体」の方向付けのことかもしれない
いくら整体の技術があっても、死んだ人を生き返らせることはできません。生きた人が相手です。生きているということは、呼吸をし、心臓は脈を打ち、たえまなく栄養を取り入れたり、逆に老廃物を輩出したり、体温を上げたり、血液を流したりといった膨大な生きるための営みは全身でくまなく行われています。
それに対して、不調、つまり身体の症状や病状というものは、その身体全体がやっている生きている営みの全部の量に比べれば、実は量的には大したことがないのです。もちろん、症状病状にともなう苦痛の量はとんでもなく大きかったりもしますが、壊れている部分そのものというのは少しだということが言いたいのです。
つまり、身体全体としては、前記したバケツリレーの200人のようにやる気に満ちているのです。ところが、そのやる気のある人たちも、スタート、ストップ、何分休憩、いまは〇〇待ちでしばらく待機、などの情報や方向付けがないだけで、うまく回らなくなるのです。
情報が伝わらないだけで、「いつまで待たせんねん」「段取りが悪いのー」などと言い出す人が出てきます。身体でいえば部分が硬化、硬直して、流れなくなってしまいます。
そういう全体を取りまとめるような方向付けができれば、病気や症状を治していくのは、本人のもともと持っている力なのです。
整体というのは、名人になるほど少ない時間で終わります。晩年の野口晴哉先生など、一日に150人とかという人数を観られていたそうです。(整体では診ると書かずに観ると表現します)一時間に15人とか20人観ないとこなせない人数です。晩年は一人3分ぐらいで勝負されていたそうです。
整体を外科手術のような作業だと考えると、3分で何ができるの、ということになりますが、「最適な方向付けをすれば、あとはその人の身体がやってくれる」と考えれば、筋道が見えている人なら可能かもしれないなと思えます。
日本海の重油流出事故現場に赴いたのは、整体を学び始めて2年ぐらいの時で、まだまだ産毛がはえたぐらいのレベルでしかありませんから、その時はまだ災害救援と整体を結び付けて考えられたわけではありません。
ただし百人単位のやる気に満ちた人たちが、適当な枠組みやルール付け、もしくは方向付けがないだけで、たちまち能率の悪い非生産的な集団にもなってしまうんだと実感し、気の利いた方向付けにとても興味?のようなものが湧いたという記憶はあります(だからつい先日のことのように思い出せるのでしょう)