筋トレの身にもなってみろ

【筋トレの身にもなってみろ】

私が25歳から10年間学ばせていただいた大槻ヨガの総帥、大槻高弘師は日本にヨガを広められた草分けのお一人、故・沖正弘師のかなり初期の高弟で、都会でヨガの専門教場を設立されたのは、おそらく日本で最初だろうという方でした。

沖ヨガそのものがインドヨガとは一線を画す日本人が再編成した独自のものでしたが、大槻先生はさらにご自身の体験に基づいた解釈でのヨガを説かれていましたので、入門前にいろいろ本でそれ相応のヨガに対してのイメージがあった私にとってはかなり「どこがヨガやねん」と感じさせるものでした。

ですが、その後の35年たって、野口整体や日本武術の知見も加えながら追いかけているものは、まさしく大槻高弘師がご指導くださった中身を、津田なりに追走しているものになっていることに改めて感じます。

35年前、津田がまだ20代で入門二年目ぐらいのヨガの指導員だったころの写真
(出典:秘伝実用のHATHAヨガ入門 大槻高弘 著)

 

さて7月15日【二つの視点でこんなに違う 例えば筋トレ】で、筋トレが習慣化できたのは赤ちゃんのような非力な状態に戻って少しずつ成長していく、という生命の流れに沿って、成果よりも習慣化=挫折しないことを優先にしたからということを書きました。そこでは割愛したもう一つの「和の体育」の視点をお話しします。

大槻高弘師が、口を酸っぱくして説かれたのが「相手やまわりのある世界で生きよ」という表現でした。(ね、入門前にインドヨガのことも少しだけ勉強していた私は「どこがヨガやねん!」と???だったのでした)今でもその真意を理解したのかは分かりませんが。

しかし整体や武術、身体の使い方や訓練を追及していくと、「個人の中の思い込みで動く」ということが、とにかくまともな上達を妨げます。そのあたりを痛感していくと、ヨガ時代の師が教えようとされていたのは、このことだったのかと思われるというお話しです。私が心の中で「インドヨガと全然ちゃうやんか」と内心疑問だらけだった大槻師の解説よりも、さらに曲解がはなはだしくなっているとも言えなくもないのが津田説です。

さて話題は筋トレに戻ります。

筋トレでなくてもスポーツ選手の「練習」「特訓」みたいな世界に共通の話です。優勝した選手の報道では、「つらい厳しい練習に耐えたからこその栄冠」という切り口が圧倒的に多い。伸びない選手、頭打ちの選手には「練習がまだまだ甘い」というような論評を加えられることが多い。日曜日の朝に張本さんに「喝!甘いよ」としかられます。苦痛なくして栄冠なし。栄冠は苦痛と引き換えで得られるという枠組みです。

さて、視点を変えたいと思います。筋トレです。相手側から考えるというヨガの師の教えです。「私が筋トレをやる」を相手側から考えるとなるとどうなるかというとあなたが「筋トレさん」だったらどんなふうに筋トレしてほしいか、ということです。およそその視点でトレーニングを書いたものを、読んだことがないので書いておく値打ちはあると思います。

私が筋トレさんだったら、歯を食いしばってやってほしくない。嫌で嫌でたまらないけども、やらないと筋力が付かないからやむを得ずやっても欲しくない。トレーナーに渡されたメニューに書いてあるから、いやいやでもやんなきゃいけないと思ってやってほしくない。

できれば喜んでやってほしい。嬉々としてやってほしい。やると調子よくなるんだもんな―、やめられへんなーという思いでやってほしいに違いないのです。

今日も会えたね、今日もよろしく、楽しみにしてたよ、という気持ちでやってもらいたいに違いないのです。お蔭さまでありがとーという状態になるようにやってもらいたいに違いないのです。

10代20代のように、むちゃもまたその世代の体力の特権という世代ではない、秒読みで還暦のおっさんとじいさんの境目の私にとってはそういうものなのです。

この解釈は学んで30年たった津田啓史の独自の解釈ですから、大槻師の真意に沿うものかどうかはまったくわかりません。あくまでも津田啓史の実践しての解釈ですが、「苦痛に耐えないと効果がない」という前提で組み立てられた筋トレの励み方と、「会いたかったよー」と言ってもらえる筋トレの組み立てや励み方には、ものすごい差が出そうだなとは思うのです。事実、全く同じ筋トレが全く違う効き方になりますから。

やるほどに背骨がくにゃくにゃ度が増して、張りやこわばりが減る。そんな筋トレです。

繋がりがよくなるトレなので、筋トレは筋トレでも「繋トレ」だなと思っています。

 

※こちらの動画もご参考にどうぞ※
【動画】「疲れる筋トレが気持ちよく50日続いた 習慣化のヒント」