マインド、フルでねえっす その2

【マインド、フルでねえっす その2】

まあ標題からして「マインドフルネス?けっ!」というにおいがプンプンするが、もちろんそういう切り口で講習・教授されているなかには、本当に全体性を高めて誰かの助けになっているものもあると思うので、すべてを否定しているものではないと最初に述べておきます。

いい先生に出会えた方はよかったですね、ということです。

 

●なぜ分ける

さて整体の立場から言えば、そもそもメンタルとフィジカル、マインドとボディを「分けなくてもいいんじゃね」ということにスタートを置きます。

腹が減ったままスーパーに行くと、どうしても買い込む食品の量が増える。自己認識としては一つ一つ吟味して必要性を感じて買っているという意識でしょうが、実際にその分量を考えれば思考や理性が購買しているのではなく、胃袋が買ってしまったという説明の方がしっくりきます。

イライラするメンタルは実は小便がたまっているのが背景にあったり、やたら腹が立つのは冷えてねじれているということだってある。八つ当たりの対象になる人はいい迷惑です。私の考えではあの人は許せないと思っているが、実は私の冷えが八つ当たりを求めていただけということです。

一つの身体というものでありますが、大雑把に言って思考やメンタル的なものは頭部。感情は胸部、本能は骨盤周辺というあたりに住民票があります。頭でイライラして、胸でドキドキしたりときめいたりして、下腹周辺でムラムラするといった具合です。

人間の特性としましては、理性や思考というものと、勘や本能というものが拮抗関係、シーソーになっています。私が「マインドフルネス」的ネーミングに微妙に抵抗を覚えるのは「マインドフルネスっている特別な状態」があって、そこに至ることのできる特別な方法がある、という具合に多くの人が感じるのではないかという部分です。

人の身体というものは特殊な障がいででもないかぎり、心身もひっくるめてもともとフルネスですと思っているからです。障がいがあったとしても、それは全体のごくごく一部で大半はフルネスですと思っております。もともとフルネスに作られているのに、それを感じられないのは、何か余分にしてしまうから、その分何かが欠けてしまう、そういうからくりがあるのではないかと思います。

 

●フルにならなかった昔の私

私が人の身体にかかわる仕事の最初はヨガの指導者。でも私の認識と団体の物差しの二つともが、ヨガのアサナでも瞑想でも今思えば筋力やらストレッチ的なスポーツ感覚でやっていたように思えます。なので瞑想的なものから、ほとんど「これだ!」というものと出会ったことがない。

スポーツ感覚というのは、「手ごたえでやる」みたいな部分です。筋肉疲労という手ごたえが生まれると、筋肉が強くなる。苦行に耐えると何かが得られるという感じですね。だから、これはあくまで私の認識間違いだったのでヨガそのものが悪いということではないのでしょうが、私が実際やっていたのはそういった勘違いの世界でした。

瞑想すれば眠気と雑念との闘い。アサナをしても張りの痛みと雑念との闘い。指導員研修で外見上は文句のつけようのないアサナが決まっている私の脳裏には、「昼飯食べてないから、研修会が終わったら角の辰庵でお蕎麦のカツ玉弁当食べよう」というようなものが毎回浮かんでおりました。(つづく)

日曜日は名古屋(愛西市の勝幡になりました)で10時から、週明け月曜日は東京で10時半から、五時間の講習会があります。お申込みお問合せは下記からどうぞ。

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