自問自答 和の体育の陰と陽
「自問自答 和の体育の陰と陽」
「自問自動すること二日間。回答すること700問」などと前回書きましたが、
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こういった思い付きのアイデアを書く際に、本当にちゃんと自問自答しているかという疑問がわきました。
だいたい自問するときの設問というのは大したことがない。大雑把。洗練されていない。アバウト。ただの愚痴だったり不満だったりします。
あーうまくいかん、どしたらええねん、これでなんとかなってほしい。これでうまくいってほしいと思っているレベルです。白い粉が手元にあったから料理に振りかけて「どうぞ塩であってほしい」みたいなレベルです。
「いろいろ考えた結果」とか「さんざん自問自答して」とか口には出します。しかし「和の体育」の基本的な考え方、「自他の適切な関係性からよりよいあり方が導き出される」という物差しを当てると、どうにも寸法が足りません。
私が「9マス思考」で書いたものは、現状の問題点を解決改善する「回答」「解答」であるはずです。その列挙されたものを見てみると以前から持ち越しで進んでいないものや、手を付けては挫折したものばかりです。極端に言えば失敗例です。失敗はしてなくても成功に至らなかったものです。つまり「回答」はしたものの「解答」にはなっていないということです。
回答が解答になっていない。つまり、解決改善に導く解決策になっていないというのは何が悪いのでしょうか?答えが悪いということを和の体育=関係性で考えると、陰と陽という物差しを当ててみるという方法があります。解答が陽なら質問が陰です。質のいい解答という陽を得たくば、質問という陰を整えればいいに違いないということに気づきました。ちゃんと聞かれていないから、まともな答えが返ってこないという仮説です。
設問がいい加減だから、プランという回答もアバウトだったのです。あらゆる詰めが甘い。一人の人間の頭の中だけでやっているからそうなるのでしょう。かなり適当です。いいかげんともいえる。
お客さんにちゃんと仕上げた料理を熱々・適温できれいに盛り付けてお箸をつけて出すという「当たり前」からしたら、完成していない生煮えだったり火が通ってなかったり出汁がしみてなかったり、そもそも出汁を取ってないような料理を、適当な容器にぐしゃっと入れて、さじもスプーンもお箸もそろっていないレベルで出している。だからうまくいかなかったと説明すると、つじつまが合うのです。説明がつくのです。
毎日考えたと言っても、何についてどう考えたかというとアバウトなのです。解決したいことや改善したいことは頭にはありましたが、それが頭の中をぶんぶん飛び回る時間を、あたかも解決策を策定する時間とカウントしたことが間違いだったのです。
道に迷っている時間を、目標に向かって歩いている時間だとカウントするから余計におかしくなったのでした。ちゃんと迷っている時間だとカウントしていれば、その後の行動もちょっとはかわったというものです。
設問・質問に問題があるという仮説が立ちました。だとすればそれを検証する実験は一つです。
(つづく)
生活整体研究家
津田啓史 拝