使うことで価値が生まれるお金というのが氣と似ているなと思うのです

【使うことで価値が生まれるお金というのが氣と似ているなと思うのです】

国と国民とお金の話のここ最近の一連の最後です。

国が刷って配ったり支払ったりしたお金に、価値が宿るのは政府の力ではありません。あらゆる国民が重層的に絡み合って、せっせと働いて(あるいはサービスを受ける対象として存在して)生産力や供給力を確保しているからこそ、国が刷る紙切れに、額面だけの力が宿るのです。

個人個人で見たら分かりにくいのですが、国と国民という形で見れば、国民がお金に価値を宿らせているのですから、価値が保てるのであれば、その範囲内では、国が国民にお金を配っても誰も損をしないのです。活気が出るだけです。

生きている人の営みが、ただの紙切れに価値や力を宿しているのです。つまり、お金には今の世の中を生きている人の生命の営みが宿っているのです。

「金が命じゃー」というのは強欲な爺さんなどを表現するのに使われますが、その成り立ちを考察していくと、まさに「お金には、みなさんの日々の生命の営みによって力を宿されている」のですから、まさしく金は生命なのです。

そしてあらゆるエネルギーというものは、通過するときに移動するときにパワーを生みます。存在するだけでは力になりません。

水力発電所では、高いところに水をためる(位置エネルギーが高い)だけでは何も生みませんが、その水を下に向けて放出して、タービンを回せば発電します。

電気エネルギーも、電気を使用する機械を通過している間に熱になったり光になったり音になったりという仕事をします。断線して通り抜けられないと仕事になりません。

お金という電気が通る電線は、あらゆる工場、お店、職場、農地、漁船、鉄道網、航空会社、飛行機そういった社会を作っているすべてのものです。

お金というのは、もともと誰かが未来に成功して受け取れる分のお金を、借金という形で現在に前倒しで流通させるような性格のものでした。つまり「将来の成功を時間を超えて先取りしたもの」です。物々交換から発展して、時間を超えられる性格を持っています。

そして、日本に住むすべての人の活動による需要と供給のバランスが、今の物価というレベルでお金に価値を宿らせています。

そしてコロナ禍の今、何より大事なことは、日本国内の供給力を損なわないようにしておく、ということです。工場がつぶれ、お店がつぶれ、農家が破産し、漁船を手放しということを放置すればするほど、供給力が損なわれていきます。そうなってしまうと、お金の価値がなくなっていきます。

今はまだそこまで行っていません。だから、お金を配れば、やむなく休業していても、ちゃんと働けていたのと同じ状態をなんとか維持できます。

庶民にお金を配っても、それはため込むことはできません。そんな余裕はないからです。家賃や人件費として世間に流通していきます。そうやって動いていけばお金の価値は損なわれないのです。

国がお金を配っても国は倒産しません。国が自粛だけを要請して、お金を配って補償しないと、ますます国は貧しくなり、国力は損なわれます。

自分でお金を発行できる政府・国が、借金で首が回らなくなるということはかなり強烈な誤解です。個人の借金と通貨を発行できる国とを混同している、とんでもない誤解なのです。

そして、国が発行する紙切れに値打ちを宿らせているのは政府の力ではなく、この国の供給力を維持している一人一人の力なのです。だから、国の中にお金を高速で流通させるために、休業などの補償を受けることは、個人がつぶれないためではなく、国が損なわれないために必要不可欠なことなのです。

そんな見通しができたので、補償のいろいろ、給付金のいろいろなどをメールマガジンのあとがきで紹介するのは、国の健康を保つために必要だと考えがまとまったからなのです。

生活整体研究家
進化体操と和の体育

津田啓史 拝